ここ数年、めっきり読書しなくなった。
しかし、少しだけ本を買い、読書した。
尊敬する田川建三という新約聖書の学者の著書。
「はじめて読む聖書」(新潮社)である。
数名による著書だが、他の著者には興味ない。
同書では、田川の半生が語られていた。
田川の章は、「神を信じないクリスチャン」とある。
ふふふ、いいねぇ
クリスチャンという言葉さえ余計であるとも思う。
しかし、クリスチャンといわなければ、
神を信じないという部分が生きてこない。
ぼくも田川と近いスタンス。
クリスチャンとだけいってしまえば、
キリスト教の体制派に迎合するよう、
しかし、神を信じないとだけいうのは、
通俗の無宗教のよう。
キリスト教体制派でなければ、
通俗無宗教でもないのだ。
神を信じないクリスチャン。
おれはクリスチャンではないが、キリストを信じている。
おれはクリスチャンではないが、神を信じている。
神はいる。同時に神は全知全能ではない。
この世の悲劇に神さえ困り果てている。
神はこの世の問題の解決のために、
常に乗り出している。
神が不介入だの、沈黙しているだの、
ちゃんちゃらおかしい。
神は毎日わめきちらしているし動き回っている。
それでも解決しえないほど、
神の手におえないほどこの世は悲惨だ。
しかし、神抜きには問題は解決しえない。
神の側にたつのか、
自分の正当化のために神を利用するだけなのか、
神と敵対するのか、
人はつねに善と悪の上に成り立っている。
神ははじめから完成した人を誕生させたのではない。
いくつもやりなおし作り直しをし、
人を人にならしめた。
人が勝手につくりあげた神と、
現実をたどる神と、
どちらが信じるべき神なのか。
完璧でない神。失敗する神。全知全能でない神。
だから人を必要とする神。
神は愛なり。
愛とは、不完全形である。
不完全同士が合体することで愛は生まれる。
人の神への信仰とは、それだとおれは信じている。